【PtoP NEWS vol.07.201610 特集】パレスチナ人民連帯国際デー

2017年11月22日

毎年11月29日は、国際連合(以下、国連)が定めた「パレスチナ人民連帯国際デー」です。

「世界トイレの日」と並んで国際デーに位置付けられているこの日は、特に昔からパレスチナに住んでいた人びとやその親族から見れば、10年間我慢して腸内に溜め込んだガスを一気に連中の顔面に目がけてダイレクトに放屁してやりたいと思うほどに(それができないので、彼らは石を投げたり火炎瓶を投げたりして抵抗していますが)、黙って過ごすことのできない日として、心に刻み込まれています。

 

 

パレスチナの子どもたち

パレスチナの子どもたち

「パレスチナ人民連帯国際デー」制定は、1947年11月29日、国連がパレスチナの地を「ユダヤ人向け」と「アラブ人向け」に分割するという決議を採択したことに端を発します。
この時点で、多くの人びと(パレスチナ人)がこの地に住んでいましたが、同決議をきっかけとして翌年5月に現在のイスラエルの建国が宣言され、その地に住んでいた多くのパレスチナ人(主にアラブ人)が自分たちの土地を追われて難民となりました。
では、パレスチナ人とは全く無関係な第三者が寄り集まって二分割するという理不尽な採択が、何故なされたのでしょうか?

 

家族でオリーブの収穫

家族でオリーブの収穫

そもそも、「パレスチナ」という言葉は、地中海東岸・シリアの南側一帯を指す呼称として、ローマ時代から用いられてきました。
パレスチナは「ペリシテ人の土地」という意味で、ローマ時代以前にこの地に存在していた古代イスラエル王国を滅ぼしたローマ帝国が、ユダヤ教に関する言葉をなくすという目的で付けた地名と言われています。

ペリシテ人というのは、この地に入植して住み着いていた民族で古代イスラエルの主要な敵として知られています。後述の通りこのようにローマ帝国によって、各地にユダヤ人が離散したことも、その後のパレスチナ問題の一端を担っているといえるでしょう。

オリーブ畑

オリーブ畑

その後パレスチナは、かの有名なナザレのイエスがこの地で誕生し、受洗して布教した後に処刑された場所として知られるようになります。
16世紀にはオスマン帝国がこの地を支配し、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の全てにとって重要な聖地として存在する一方、これらの宗教を信仰する人びとが共存してきました。
重要なのは、彼らが特に大きな争い事もなく共存してきたことであり、また、前述の通り、そのパレスチナの地に住んでいた「パレスチナ人」がいたという事実です。
現在のパレスチナ問題は、あたかも根深い宗教上の対立・紛争であるかのように報じられることもありますが、必ずしもそうではありません。

オリーブの古木

オリーブの古木

2000年前の離散以降、ユダヤ人は世界各国に居を移し、彼ら独自の信仰とそれに基づく行動規範を守ってきました。しかし時には、それを異端と捉える周囲の人びとから迫害を受けることも少なくありませんでした。

そのようなユダヤ人の中で、かつての祖国である古代イスラエル王国のあった地、つまりパレスチナに、ユダヤ人国家を作るというシオニズム運動が展開していきました。

オリーブの実

オリーブの実

その結果として、19世紀以降、多くのユダヤ人がパレスチナの地に移住しました。この運動の標語として有名なのが「土地なき民に、民なき土地を」という言葉ですが、パレスチナの地にはすでに多くのパレスチナ人が住んでいたことはご説明した通りです。

 

つまり、シオニズム運動は、このような事実を隠蔽し、「2000年前に離散したかわいそうなユダヤ人が、自分たちの力で誰に迷惑をかけることもなく土地を取り戻し、国を再建する」というような美談を掲げ、1948年のイスラエル建国にこぎつけたものであると言えます。

 

 

オリーブの生産者

オリーブの生産者

特にユダヤ人の多い米国を筆頭に、冒頭に述べた国連による分割決議案に賛成票が投じられ、その後連綿と続くパレスチナ問題につながっていきます。
この「パレスチナ人民連帯国際デー」は、国際社会共通の問題として解決をしていくべきというところから、1977年に制定されました。
しかし実際には、この日を契機にパレスチナ問題の解決に動くという実効性を持っているわけではなく、また日本においては、国際デーはおろか、そもそもパレスチナという場所についても「何だか危ないところ」程度にしか認知されていないのが実態です。

 

実際に訪れるパレスチナは、古来より続くオリーブ畑の広がる長閑な地域です。もしこのような問題がなければ、今の100倍は観光客が訪れる風光明媚な土地として名を馳せていると思われます。そしてこれが、本来のパレスチナの姿であるはずです。誰も好き好んで石を投げているわけではありません。

今我々ができることは限られていますが、少なくとも同じ地球上に生きる人間同士、なぜこのような問題が起こっているのか、またパレスチナという地がどのような場所なのか、この日をきっかけとして少しでも伝えていきたいと考えています。

若井俊宏(わかい・としひろ/ATJ)

【PtoP NEWS vol.16 特集】伝統的なゲランド塩田での収穫

2017年11月1日

塩と言えば、泣く子も黙る調味料の王様。のり塩ポテトチップス、塩モミ野菜、塩ラーメン、塩焼きそば、塩キャラメルにソルティドッグ…「塩」のつく食べものは枚挙に暇がなく、いかに塩味が人びとに愛されているかを物語っています。

日本オリジナルの「サラダ味」も、塩味をいかにオシャレに表現できるかという先人の挑戦と探究の賜物であり、サラダは「Sal(サル)」という塩を意味するラテン語が語源ですので、ギリギリでウソのない、なおかつ塩への愛が溢れた見事なネーミングが実現しています。

ゲランドの塩田

ゲランドの塩田

塩は、ほとんどの動物が喜んで摂取する、生きるためには不可欠な栄養素でもあります。

地球上の生命は海から発生したというのが通説であり、今なお、その名残が体の仕組みに組み込まれていることになります。

宮崎県の幸島には、イモを海水で洗ってからでないと食べずにはいられないグルメなサルもいるそうですが、それも単に塩味中毒なわけではなく、本能的なものなのかもしれません。

しかし、そんな彼らでも、海水から塩を作ることはできません。今のところ、それができる生き物は、ヒトだけのようです。

そのヒト特有の英知は、土地の自然や気候に応じて様々な形で発達しました。中でも、美食の国フランスにおいて多くの著名なシェフにも愛好される「ゲランドの塩」は、ゲランド地方特有の自然とヒトのどちらもがなくては作ることのできない、きわめて素朴な天日塩です。

1000年以上の歴史を持つゲランドの塩

ゲランドの塩田風景

ゲランドの塩田風景

フランス西部ゲランド地方に広がる塩田では、1000年以上前から変わらずに塩づくりが営まれてきました。

塩職人たちは潮の満ち引きに応じて海水を引き入れ、それを貯水池に溜めておき、そこから水深わずか数センチの塩田の中心まで、絶妙な傾斜のついた迷路のような水路を、全体が乾かないように巧みに海水をコントロールしながら導きます。

その過程でじわじわと水分が蒸発することで海水が濃縮され、行きつく先で塩が結晶するギリギリの塩分濃度になるように設計されています。

コレ、相当大変です。

微妙な力加減でラデュールに塩を積んでいく

微妙な力加減でラデュールに塩を積んでいく

ゲランド地方は天日塩製造の北限と言われ、適度な日照と気温、そして風の強さがカギとなります。さらにその絶妙な気候が訪れるのは、1年のうちでも7月~9月頃だけ。

当然、塩の収穫もこの時期に限られます。最適な気候のもと、もはや死海並みの塩分濃度になったオイエと呼ばれる採塩池では、この時期、主に朝と夕方の2回、塩職人がラスと呼ばれる5メートル近い長さのトンボ状の道具を片手に、池底に結晶した粗塩を収穫します。

わずか数センチの深さの池で、5メートル先にくっついた板を操り、池の底をえぐらないように塩だけを手前に寄せる。文字にすれば50字足らずの作業ですが、コレ、相当大変です。

池底に結晶した粗塩を『ラス』と呼ばれる道具で収穫

池底に結晶した粗塩を『ラス』と呼ばれる道具で収穫

池の底をえぐってしまうと、塩に泥が入ってしまって商品にならないし、塩田もキズつきます。だから、それこそ赤ん坊をなでるように丁寧に、エビ反りしたラスを手繰ります。

そのため、塩職人の手は、いつもマメだらけ。これを繰り返して、少しずつ塩を浮かせて手前に寄せ、ラデュールと呼ばれる場所に積んでいきます。

熟練したパリュディエ(塩職人)のマメだらけの手

熟練したパリュディエ(塩職人)のマメだらけの手

一見地味ながら非常な技術を要するこの収穫作業、決してヨソ者にはさせてはくれませんし、一人前になるには修業が必要。

だからこそ、彼らは親しみと敬意を込めてPaludier(パリュディエ=塩職人)と呼ばれます。

至る所に塩の白い山ができるこの時期のゲランドの風景は、日本で言えば稲が干されている田んぼの風景のようなもの。ゲランドの人びとの心に根付いた、故郷の景観なのでしょう。

塩田に咲く塩の花

フルール・ド・セル(塩の花)

フルール・ド・セル(塩の花)

ゲランドの塩にはもう一つ、塩職人とっておきの塩があります。それが、現地でFlour de Sel(フルール ド セル=塩の花)と呼ばれるもの*。

条件の整った夕方にのみ、オイエの表面に浮かんでくる塩の結晶だけを集めたこの塩は、全体の数%程度しか取れない希少なもの。純度が高く、微生物の作用で収穫時にはスミレの香りがするとも言われます。(*商標の関係上、オルター・トレード・ジャパンでは一番塩と呼んでいます。)

毎年7月になると、スミレの香りと塩の山に囲まれて、塩職人が1000年前と変わらないスタイルで収穫が始まります。

若井俊宏(わかい・としひろ/ATJ)

PtoP NEWS vol.20

2017年11月1日

PDFファイルダウンロードはこちらから→P to P NEWS vol.20