レポート

デキ―は星になった

2022年12月15日

2022年7月26日午前8時25分、カカオキタ社代表デキー・ルマロペンさんがパプア州ジャヤプラの病院で息を引き取りました。享年63歳。糖尿病から腎不全、透析、最期は肝硬変で20年近くに及ぶ闘病の末、すべての力を使い尽くしました。


デキーさんは1959年8月14日、パプア北海岸最西端ソロンで7人姉弟の長男と して生まれました。家が貧しかったので高校卒業後、地元の銀行に就職したもの の、結婚した姉が 「勉強が良くできた弟(デキー)は大学に行くべき」と資金援助を申し出て、ジャヤプラにある国立チェンデラワシ大学政治経済学部に入りました。

デキーさんが学生時代を過ごした1980年代、開発至上主義を標榜するスハルト政権はパプアの地で独立を求める先住民族を激しく弾圧しました。デキーさんも参加したパプア文化運動グループのリー ダーは虐殺されました。多くのパプア人が投獄、殺害されるという恐怖と屈辱にまみれた時代でした。この頃デキーさんは1984年ジャヤプラに設立された「パプア農村発展財団(YPMD)」に参加し、パプア各地の村々で清潔な水の確保に取り組み、共同の水場を得た村の女性たちから大変歓迎されました。

民衆交易と出会うまで

村落部での取り組みのなかでデキーさんは、パプア先住民族はインドネシア政府からの援助に依存する構造に組み込まれ、経済的自立を自ら切り開く潜在力を削がれていると思い始めました。これではインドネシアから分離独立を求めても、実態的にそれは空洞化した夢にすぎないと確信したのです。独立を訴えるデモなどで銃弾に倒れる多くのパプア人を目の当たりにして、「これ以上大切な命を犠牲にしてほしくない」という強い思いもあり、経済的自立で実質的独立を獲得する闘いに切り替えるべきだ、という考えをますます強めました。

カカオ事業の相談を始めた頃のデキー (2009年7月)

YPMDは設立当初から海外の資金援助を受けていましたが、デキーさんはこうした援助に頼るというYPMDのありかたにも限界を感じていました。ドナーの意向にYPMDの方針が左右されるというジレンマに陥っていたのです。また2000年以降、パプアのNGOが外国から資金援助を受けるにはインドネシア政府 の承認が必要となり活動の自由が狭められました。
そんななかデキーさんが出会ったのが、民衆交易でした。生産地の人間と社会に関心を寄せる日本の消費者と関係を築くことがパプアの人びとには何よりの励みになる、と大きな期待を寄せました。そして、 YPMDとは別組織の会社「カカオキタ社」を立ち上げました。

カカオ生産者との勉強会

村人に寄り添い続けたヒーロー

デキーさんはカカオ生産者に常々こう語りかけていました。「インドネシアのなかでパプア人はビジネスができないと見下されているけれど、そのわたしたちとカカオの交易をしようと言う日本の友人と出会いました。肌の色、文化慣習も異なる人びとですが、パプアの人間と自然を尊重してくれる友人です」「民衆交易は、取引ではありません。『自立』は届けられるプレゼントではありません。自分たちの力で道を切り開く、その プロセスの結果であり、友情と連帯に支えられたその先に共に自立していく未来がある。その時がきたら、その時こそパプアの旗を力 カオ畑の真ん中に立てよう!

生産者との対話を何よりも大切にした。

デキーさんの葬儀には300名を超える参列者が集まりました。参列したカカオ生産者のひとりは「デキーさんは本当の意味でわたしたちのヒーローです。大学出のインテリでありながら、政府や大企業に属することなく、ずっとわたしたち村の人間に寄り添い、行動してくれました」と偲びました。
デキーさん自身は「やり残していることがまだたくさんあるのです。神さま、お願いですからまだ僕を連れて行かないでください」と死の直前まで生きる執念をみせつけました。
パプアでは宵の明星が先住民族アイデンティティー のひとつです。デキーさんは星となり、人びとの心のなかで輝きつづけるのです。

カカオキタカフェでスタッフと共に(2020年12月)

津留歴子(つる•あきこ/カカオキタ社)

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