パプアのカカオ
Cacao from Papua- カカオの産地インドネシア・パプア州
- 日本から4,250kmほど太平洋を南下した先にある、世界第二の大きさを持つニューギニア島。その西半分のほとんどを占めているのが、インドネシア・パプア州です。
80%以上が熱帯雨林に覆われ、今も手つかずの豊かな自然が残されています。
外部の理屈に振り回され続けている島
ニューギニア島は、実は19世紀末頃までは、外の文明との実質的な関わりはほとんどありませんでした。しかし西欧によるアジアでの植民地主義政策が広がる中、1872年以降一方的に境界線が設定され、その西半分がオランダの領域とされました(なお、東半分はさらにイギリスとドイツによって南北に「分割」されました)。第二次大戦中には日本軍によって占拠され、終戦後は再度オランダの実効支配を受け続け、1960年に西パプア国として自治権が「与えられた」ものの、その後のインドネシア軍の侵略を経て1969年に半ば強行的に併合されて今に至ります。結果的に現在のニューギニア島は、西側のインドネシア共和国と東側のパプアニューギニア独立国に分かれ、そこがアジアとオセアニアの境界線とされています。
ニューギニア島が抱える「手つかずの自然」はまた、「利用可能な資源」として外部から目を付けられることにもなりました。現在、インドネシア国内外から多くの移民や企業がパプアに進出し、熱帯雨林がアブラヤシ農園に切り開かれたり、鉱物資源や地下資源を採掘するための乱開発が進んだりと、外からの人々の手によってパプアの環境が大きく変えられ続けているのです。
パプア人として生きていきたい
短い間に急激に起こったこれらの出来事は、それまでこの島で暮らし続けてきた先住民族にとってみれば、自分たちとは全く関係のない理屈によって島が分断され、全く異なる価値観が持ち込まれ、勝手に所属する国が決められ、自然環境も社会環境も作り変えられていくという、存在そのものが無視され続けられた歴史に他なりませんでした。
今彼らが求めているのは、パプア人として当たり前に生きていくことであり、近代的価値観と折り合いを付けながらも、パプア古来の豊かな自然の中で昔ながらの暮らしを続けていくことです。自分たちを取り巻く変化の中でそれを実現するためにできる一つの手段が、カカオ豆の販売だったのです。
パプア人によるパプア産カカオ交易へ
カカオは元々自生していたわけではなく、オランダによって持ち込まれ、現在ではパプアの人々の重要な現金収入源の一つとなっています。しかし、これまで生産者たちは、収穫したカカオ豆を売る術しか持っていなかったため、それを仲買人に安く買われていました。相場も知らず、品質について意識したり良質なカカオ豆を作ることによって収入を上げるという発想を持てる機会も少なかったのです。
2012年から始まったパプアのカカオの交易は、パプア人が組織した現地パートナー、カカオキタ社が買い付けや出荷を担っています。単に豆の買い付けだけではなく、発酵や乾燥などの品質管理に関する指導も行ってきました。これは、品質を改善してパプア産カカオならではの風味を作り出すことで、付加価値を高めてより良い収入源につなげると共に、「カカオ産地としてのパプア」の知名度を高めていく狙いがあります。
また、生産者の多くは自分たちの育てたカカオがチョコレートになることや美味しさを全く知りませんでした。そこでカカオキタ社は、生産者向けにカカオのワークショップを開催し、自分たちが作るカカオを味わってもらう機会を作ったり、日本の生協などの力を借りながら、買い付けたカカオ豆から作ったチョコレートやココアを提供できるカフェの運営にも漕ぎつけました。生産者にとってはもちろん、地元の人々もパプアの産品を気軽に楽しめる場所として、日本だけではなく現地でもパプアのカカオを広める取り組みが進んでいます。
現地パートナー:カカオキタ社(PT. Kakao Kita Papua)
カカオキタ社は、カカオを作る人、チョコレートを食べる人が相互に学び合い、励まし合いながら自然や人にやさしいチョコレートを一緒に創造していくことを目指しています。Kita※とはインドネシア語で「わたしたち」という意味で、生産者だけではなく、食べる人、つなぐ人、パプアの自然を含めた「わたしたちのカカオ」という意味が込められています。
※インドネシア語には2種類の「わたしたち」、Kita(キタ)とKami(カミ)があります。Kitaが話し手も聞き手も全部含めての私たちを示すのに対し、Kamiは聞き手を含みません。Kakao Kitaには生産者だけではない「わたしたちみんなのカカオ」という意味が込められています。